【第5話】追憶

 こんなに泣いたのは小学生以来だった。あれは小学六年の時、近所の公園に猫が捨てられていて、僕はその子猫を家に連れて帰った。

 「ダメよ、お父さん猫アレルギーなんだから。元の場所に戻してらっしゃい」

 母は全く取り合ってくれなかった。母に子猫を飼うのを反対された僕は暫くの間、部屋でこっそり飼っていた。でも、ある日学校から帰ったら子猫の姿がなかった。

 「猫、お母さんの知り合いにあげたから」

 と母は言ったが、子猫が保健所に連れて行かれた事を悟った。僕は部屋に閉じこもり、毎日泣いてばかりいた。あの時は体中の水分がなくなってしまうのではないか、と、思うほど泣いたが、薄毛で流した悔し涙の比ではでない。そもそも屈辱を受けた記憶がないのだ。ましてや頭に煙草の灰を落とされるなんて……。雪乃があんな酷い事をするなんて信じられない。確かに彼女はクールだ。と、いうより磯部の言う通りドSかもしれない。磯部や中島が雪乃のギャップに驚いていたが、僕も最初はかなり驚いた。

 「学級委員長さん、よろしくね」

 

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 雪乃の桜色の唇から真珠のような白い歯がこぼれた。僕は年頃の少年にありがちな態度で、「ああっ」とだけを返事した。

 それが雪乃と僕の初めての会話だった。

 中学一年の時、僕は学級委員長に選ばれ、雪乃が副委員長に選ばれた。雪乃の艶やかな黒髪からフワッと石鹸の香りがして、名前のとおり雪の様に肌が白かった。ベタな言い方だが地上に舞い降りた天使に見えた。でも僕は一目惚れするタイプではなかったし、お隣に住む美咲に好意を寄せていたから最初、雪乃の事は可愛いクラスメートにしか思っていなかった。

 ところが雪乃に体育館の裏に呼ばれ、告白された上に唇を奪われた僕は、まるで木の葉が風でひっくり返るみたいに、美咲から雪乃に心変わりしてしまったのだ。清楚で優等生の雪乃が小悪魔に見えた。僕はそのギャップにやられた。

 

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 いとも簡単に恋に落ちてしまったのだった。

 好きになるのに時間も理屈もない、と、その時心の底から思った。

 それから僕と雪乃の付き合いが始まり、雪乃が猫好きだと知って、あの公園に捨てられていた猫の一件を話した。すると雪乃は、

 「あのね、私のママ銀座で働いているんだ。しかもナンバーワンなの。パパはいない。顔も知らない。ママ、夜いつもいないでしょう。だから夜は一人ぼっち。それで寂しいってママに言ったら、猫でも犬でも飼えばいいじゃないだって。ウケるよね。ねぇ保健所から子猫貰ってきて、その保健所に連れて行かれた猫のぶんまで可愛がってあげようよ。二人で育てよう」

 と言った。中学生だった僕は銀座やナンバーワンの意味がわからなったし、また雪乃が突拍子もない事を言い出した、と、戸惑った。その戸惑いは保健所から猫を連れて来て育てる、という事は勿論だが、「パパはいない。顔も知らない」と、まるで日常会話みたいにフツーに話す雪乃に、より戸惑いを覚えた。

 僕は悲しい気持ちになった。

 どうしてパパがいないの?なんて、とても聞けなかった。

 数日後、僕と雪乃は保健所から殺処分寸前の三毛猫の子猫を貰ってきた。子猫に三毛猫の三毛と僕の名前の照男から男をとって三毛男と命名した。それからというもの僕は部活の帰りに雪乃の家に寄るのが日課となった。

 中学生三年の冬の日、両親が結婚記念の旅行に行った。受験生の僕は一人留守番する事になった。すると雪乃から、

 「家に泊まり来て」

 と誘われた。僕は三毛男と遊べるし、雪乃と一緒に受験勉強をするのも悪くない、と、思って雪乃の家に泊まりに行った。

 ところが……。

 その夜、僕は男になった。

 

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 雪乃から誘ってきた。彼女は何かにとり憑かれたみたいに僕を求めてきた。きしむベッドの上、欲望とモラルの狭間で揺れ動きながら無我夢中で僕も雪乃を求めた。恍惚と罪悪感が交互に細波みたいに寄せては返した。
 全てが終わった。

 ベッドに横たわって僕を見つめる彼女の瞳は、この世の全ての悲しみを湛えていた。あんなに淋しい目を見たのは初めてだった。

 「高校は別々になっちゃうけど、他の女の子好きになったら許さないから」

 雪乃はそう言っていたが、彼女に好きな男ができて僕達は別れた。ところが大学で雪乃と再会して三毛男がまだ生きている事を聞き、三毛男に会いに彼女の家に行ったのが切っ掛けで付き合う事になった。でも大学の構内で雪乃を見かけた時点で彼女を好きになっていたんだと思う。熟成したワインのように、芳醇な大人の女になった雪乃に僕は二度目の恋をした。

 「ああっ泣いたら喉が渇いた」

 僕はベッドから起き上がった。

 「何?」

 窓に何かが投げつけられた音がした。

 「まさか雪乃……」

 僕は慌てて窓を開けた。

 「はぁ?」

 窓を開けるとジャージ姿の桐島が庭から手を振っていた。

 「おい、玄関のカギ開けろよ」

 このシチュエーションは久しぶりだった。真夜中に突然、桐島が訪ねてくるのは高校以来だった。

 

(つづく・・・)

 

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