【第9話】衝動

 「いらっしゃいまし」

 今宵も小夜子が僕を笑顔で迎えてくれた。

 僕はすっかり店の常連になっていた。最初の頃は桐島と一緒に店に来て、同じ薄毛に悩む若者達とテーブルを囲み、薄毛の悩みを赤裸々に語り、心の傷を舐め合い、励まし合っていたが、近頃はカウンターで小夜子相手に飲む事が多くなった。

 店では客同士が愛称で呼び合い、お互いの素性を聞かないのがルールで、僕はイケメンと呼ばれ、桐島は若大将と呼ばれていた。薄毛の悲しみ苦しみ屈辱は薄毛になった者にしか分からない。皆で酒を酌み交わし薄毛という共通の話題で盛り上がると、ストレス発散になったが雪乃の事、いわゆる恋の話はできなかった。桐島も気を使って話題にしなかった。

 このところ桐島は店に顔を出さなくなった。常連客の一人、山さんの紹介で夏休みの間だけ塾の講師をしているから。桐島は「塾の講師は俺の天職だ」と言って楽しそうだった。薄毛でしょぼくれていた桐島が高校の時みたいに元気になって僕は嬉しかった。

 雪乃からは相変わらず連絡がなかった。きっと彼女は二人の仲が自然消滅すれば良いと思っているのだろう。連絡したら絶対別れを告げられる。僕はそれが怖くて連絡ができなかった。僕と雪乃を結んでいる赤い糸は今にも切れそうで、いやとっくに切れているかもしれないけど、僕は赤い糸が切れていない事を祈りながら必死にしがみつていた。

 今夜もカウンターで、やり場のない気持ちを酒で紛らわせていた。

 「ビールの次はハイボールでいいかしら」

 小夜子は氷がたっぷり入ったグラスにレモンとウィスキーを入れてソーダを注いだ。酒を覚えてから飲むパターンが決まっている。瓶ビール1本を皮切りに、お次はハイボール、小夜子手作りの熱々の唐揚げを食べながらゴクゴク飲む。唐揚げは罪だ。酒がすすむ。ウィスキーの濃度も濃くなっていく。四杯目を空ける頃になると、また飲み過ぎてしまったと後悔する。学生の僕がスナックに通い酒代を払えるのは瓶ビール一本分しか払っていないからだ。あとは小夜子が全部払ってくれる。最初は悪いと思っていたが、慣れとは恐ろしいもので今じゃ罪悪感はない。

 グデングデンのくるくるだ。僕はカウンターに突っ伏す。冷たい大理石が頬に気持ち良い。小夜子が優しく僕の薄毛を撫でる。なんて優しい女なんだ。それに比べてあのドS女、僕の薄毛に煙草の灰を落としやがって。連絡もない。別れたいなら別れたいと言え。

 怒りが腹の底から込み上げてきた。

 「桐島から聞いたよ。彼女と上手くいってないんだって?」

 「おしゃべりな奴め」

 僕は顔を上げた。

 「あなたから中島にのりかえたんじゃない? あいつ性格悪いけどイケメンだし、お金待ちの息子だしね。絶対、二人であなたの事笑っている。薄毛とか言っちゃって」

 まさに火に油を注ぐとはこの事だ。

 「帰る」

 僕は勢いよく席を立った。

 いつもの様にレジで瓶ビールの分だけ払おうとした時、レジ脇に置いてあったハサミを落としてしまった。僕はハサミを拾って無意識に上着のポケットに入れて店を出た。

 

 新聞配達のバイクの音で目が覚めた。

 僕は飲んだくれ横丁の路上に座り込んで、ゴミ箱に寄り掛かったまま寝てしまったのだった。東の空がすっかり明るくなっていた。野良猫が僕を見るなりシャーと鳴いた。数羽のカラスが路上に転がるゴミ袋の穴から残飯を穿り出して食らっていた。僕はよろよろと立ち上がって、二日酔いで痛む頭をもてあましながら大通りに出た。

 「飲み過ぎた……」

 僕はマクドナルドの窓際の席でブラックコーヒーを飲みながら昨晩の記憶を辿った。

 「……絶対、二人であなたの事笑っているって。薄毛とか言っちゃって」と小夜子が言って、ムカついて席を立ったところまで覚えているが、その後の記憶が全くなった。

 僕は小夜子の言葉を思い出して、また腹が立ってきた。もうすぐ長い夏休みが終わる。やはり自然消滅か……。雪乃は薄毛の僕から中島にのりかえたに違いない。

 「所詮、女なんてそんなもんさ」

 僕は誰に言うのでも声を荒げた。

 近くに座っていた女性客が怪訝な顔でこちらを見た。僕は気まずくなって一気にコーヒーを飲むと店を出た。

 昨夜、店に乗ってきた自転車は、そのまま店に置いてきてしまった。二日酔いで頭は痛いし、店に取りに行くのも面倒なので電車で帰る事にした。

 

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 休日の電車は通学、通勤の時間帯にしては比較的空いていた。

 長椅子のスペースが1人分空いていたので座ろうとしたら、肉付きの良い御婦人が僕を押し退け、自分のケツ幅より狭いスペースに無理矢理座った。恐るべしおばさんパワーだ。椅子取りゲームに負けた僕は座るのを諦めて運転室のドアに寄り掛かった。

 発車の音楽が流れ電車のドアが閉まる寸前、長い髪の女が乗車してきた。二十代くらいだろうか。女は人に押されて僕に背を向ける形で隣に来た。長い髪からジャスミンの匂いがした。電車が揺れると、女の髪の毛が僕の顔に触れた。その時、電車が揺れ女の尻に手が触れてしまいチカンに間違われたニュースを思い出した。僕は上着のポケットに手を入れた。なんだ?金属みたいな冷たさが指先に触れた。僕はポケットの中を見た。なぜハサミが入っているんだ……。

 全く記憶がなかった。

 また女の髪の毛が顔に触れた。電車が揺れる度、サワサワと毛が僕に触れる。うざい。僕はポケットのハサミの穴に指を入れた。

 陽光に輝くこの黒髪を、ハサミでばっさり切ったら爽快だろう。黒髪の女は悲鳴を上げ泣き叫ぶだろうか。

 女も髪もこの世から消えてしまえ。

 僕はポケットからハサミを取り出した。パチパチとハサミを鳴らす。悪魔が囁く。切っちゃえ。僕は黒髪にハサミを近づけた。

 「あっ」

 誰に手首を掴まれた。