【第9話】衝動
「いらっしゃいまし」
今宵も小夜子が僕を笑顔で迎えてくれた。
僕はすっかり店の常連になっていた。最初の頃は桐島と一緒に店に来て、同じ薄毛に悩む若者達とテーブルを囲み、薄毛の悩みを赤裸々に語り、心の傷を舐め合い、励まし合っていたが、近頃はカウンターで小夜子相手に飲む事が多くなった。
店では客同士が愛称で呼び合い、お互いの素性を聞かないのがルールで、僕はイケメンと呼ばれ、桐島は若大将と呼ばれていた。薄毛の悲しみ苦しみ屈辱は薄毛になった者にしか分からない。皆で酒を酌み交わし薄毛という共通の話題で盛り上がると、ストレス発散になったが雪乃の事、いわゆる恋の話はできなかった。桐島も気を使って話題にしなかった。
このところ桐島は店に顔を出さなくなった。常連客の一人、山さんの紹介で夏休みの間だけ塾の講師をしているから。桐島は「塾の講師は俺の天職だ」と言って楽しそうだった。薄毛でしょぼくれていた桐島が高校の時みたいに元気になって僕は嬉しかった。
雪乃からは相変わらず連絡がなかった。きっと彼女は二人の仲が自然消滅すれば良いと思っているのだろう。連絡したら絶対別れを告げられる。僕はそれが怖くて連絡ができなかった。僕と雪乃を結んでいる赤い糸は今にも切れそうで、いやとっくに切れているかもしれないけど、僕は赤い糸が切れていない事を祈りながら必死にしがみつていた。
今夜もカウンターで、やり場のない気持ちを酒で紛らわせていた。
「ビールの次はハイボールでいいかしら」
小夜子は氷がたっぷり入ったグラスにレモンとウィスキーを入れてソーダを注いだ。酒を覚えてから飲むパターンが決まっている。瓶ビール1本を皮切りに、お次はハイボール、小夜子手作りの熱々の唐揚げを食べながらゴクゴク飲む。唐揚げは罪だ。酒がすすむ。ウィスキーの濃度も濃くなっていく。四杯目を空ける頃になると、また飲み過ぎてしまったと後悔する。学生の僕がスナックに通い酒代を払えるのは瓶ビール一本分しか払っていないからだ。あとは小夜子が全部払ってくれる。最初は悪いと思っていたが、慣れとは恐ろしいもので今じゃ罪悪感はない。
グデングデンのくるくるだ。僕はカウンターに突っ伏す。冷たい大理石が頬に気持ち良い。小夜子が優しく僕の薄毛を撫でる。なんて優しい女なんだ。それに比べてあのドS女、僕の薄毛に煙草の灰を落としやがって。連絡もない。別れたいなら別れたいと言え。
怒りが腹の底から込み上げてきた。
「桐島から聞いたよ。彼女と上手くいってないんだって?」
「おしゃべりな奴め」
僕は顔を上げた。
「あなたから中島にのりかえたんじゃない? あいつ性格悪いけどイケメンだし、お金待ちの息子だしね。絶対、二人であなたの事笑っている。薄毛とか言っちゃって」
まさに火に油を注ぐとはこの事だ。
「帰る」
僕は勢いよく席を立った。
いつもの様にレジで瓶ビールの分だけ払おうとした時、レジ脇に置いてあったハサミを落としてしまった。僕はハサミを拾って無意識に上着のポケットに入れて店を出た。
新聞配達のバイクの音で目が覚めた。
僕は飲んだくれ横丁の路上に座り込んで、ゴミ箱に寄り掛かったまま寝てしまったのだった。東の空がすっかり明るくなっていた。野良猫が僕を見るなりシャーと鳴いた。数羽のカラスが路上に転がるゴミ袋の穴から残飯を穿り出して食らっていた。僕はよろよろと立ち上がって、二日酔いで痛む頭をもてあましながら大通りに出た。
「飲み過ぎた……」
僕はマクドナルドの窓際の席でブラックコーヒーを飲みながら昨晩の記憶を辿った。
「……絶対、二人であなたの事笑っているって。薄毛とか言っちゃって」と小夜子が言って、ムカついて席を立ったところまで覚えているが、その後の記憶が全くなった。
僕は小夜子の言葉を思い出して、また腹が立ってきた。もうすぐ長い夏休みが終わる。やはり自然消滅か……。雪乃は薄毛の僕から中島にのりかえたに違いない。
「所詮、女なんてそんなもんさ」
僕は誰に言うのでも声を荒げた。
近くに座っていた女性客が怪訝な顔でこちらを見た。僕は気まずくなって一気にコーヒーを飲むと店を出た。
昨夜、店に乗ってきた自転車は、そのまま店に置いてきてしまった。二日酔いで頭は痛いし、店に取りに行くのも面倒なので電車で帰る事にした。
休日の電車は通学、通勤の時間帯にしては比較的空いていた。
長椅子のスペースが1人分空いていたので座ろうとしたら、肉付きの良い御婦人が僕を押し退け、自分のケツ幅より狭いスペースに無理矢理座った。恐るべしおばさんパワーだ。椅子取りゲームに負けた僕は座るのを諦めて運転室のドアに寄り掛かった。
発車の音楽が流れ電車のドアが閉まる寸前、長い髪の女が乗車してきた。二十代くらいだろうか。女は人に押されて僕に背を向ける形で隣に来た。長い髪からジャスミンの匂いがした。電車が揺れると、女の髪の毛が僕の顔に触れた。その時、電車が揺れ女の尻に手が触れてしまいチカンに間違われたニュースを思い出した。僕は上着のポケットに手を入れた。なんだ?金属みたいな冷たさが指先に触れた。僕はポケットの中を見た。なぜハサミが入っているんだ……。
全く記憶がなかった。
また女の髪の毛が顔に触れた。電車が揺れる度、サワサワと毛が僕に触れる。うざい。僕はポケットのハサミの穴に指を入れた。
陽光に輝くこの黒髪を、ハサミでばっさり切ったら爽快だろう。黒髪の女は悲鳴を上げ泣き叫ぶだろうか。
女も髪もこの世から消えてしまえ。
僕はポケットからハサミを取り出した。パチパチとハサミを鳴らす。悪魔が囁く。切っちゃえ。僕は黒髪にハサミを近づけた。
「あっ」
誰に手首を掴まれた。
【第8話】快楽
「本当に金子?」
僕が言った。
「金子、金子」
「外見がまるっきり変わったけど、その口癖、金子だ。いやぁ久しぶり、まさかこんな所で会うなんて……」
僕の驚き様に桐島は手を叩いて笑った。
「まぁ積る話もあるでしょうから、お二人でごゆっくり」
桐島はそう言ってテーブル席に移動した。テーブル席では3人の男が盛り上がっていた。桐島はその男達と顔見知りなかのか、ごく普通に輪の中に入っていった。
「驚いたでしょう」
金子である小夜子が言った。
「驚いたってもんじゃないよ」
僕は手の汗をおしぼりで拭いた。
「もう本当に久しぶりなんだから」
小夜子はそう言って僕の手を握った。僕は混乱した。僕の目の前に居るのは、赤いワンピースを着た小夜子ではあるけど、高校時代僕達の使い走をして、グループの底辺で縮こまっていた、あの金子なのだから。金子がこんな風になるなんて誰が想像できただろう。いや自分だって薄毛になったのだから、お互い様かもしれない。人生、何が起こるかわからない、と、つくづく思った。
女の服装をしているけど高校の同級生だった金子に、ずっと手を握られているは気分の良いものではなかった。僕は手を振り払った。
「あら、ごめんなさいね。いつまで手を握っちゃって」
「それにしても、どうして女になっちゃったの?」
「話せば長くなるんだけど……。私もビール頂いていいかしら」
小夜子はグラスを取り出した。僕はビールを注いでやった。グラスに琥珀色がみるみる満ちてメレンゲの様な泡がグラスの淵で盛り上がり、その泡が落ちつくのを見届けて小夜子はビールを一気に飲んだ。
「私ね、自分の体に違和感を覚えたのは中学生の頃、ヒゲが生えてきて声変わりして体が男らしくなっていく事に恐怖すら感じた。それに男の子ばっかり目がいく様になって……。高校の時、ある人を凄く好きになったの。それで確信したの。私はやっぱり女じゃなくて男が好きだって」
「もしかして桐島?」
「ひ、み、つ」
僕は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。いや全く興味ないから、と、心の中で叫んだ。
「桐島はいつからこの店に?」
「一年くらい前かしら。ねぇ、この店に来るお客さんの共通点わかる?」
僕は店内を見渡した。
客はすべて男だった。場末のスナックにしては年齢層が若い。共通点は若いって事か……。
「あのね共通点は若いのに薄毛。まぁハゲている方もいらっしゃるけど」
小夜子は僕の答えを待たずに言った。
「そうなんだ……」
「この店のママも若い頃、薄毛になってね、一人で思い悩んだ経験から薄毛で悩む若者達が集まって悩みを語れる店を開いたの。薄毛の隠れ家ってとこかしら。桐島もそんな客の一人で、私と桐島はこの店で再会したってわけ。私は客から店のスタッフにしてもらったの。ああっママも昔は男よ。私と違って凄い美人だし、昔男だったなんて全くわからないわ」
「そうだったんだ……。あっ、もしかして隠れ家だから看板ないの?」
「そうよ。この店はママの若き薄毛の悩みっていうブログを見て集まった人達、お店のホームページも広告も無ければ電話帳にも載ってない。ああっ照男みたいに薄毛のお友達を店に連れて来るパターンもあるけどね」
薄毛のお友達か……。その言葉が胸にグサッときた。僕はビールを一気に空けた。ビールのほろ苦さが口に広がる。酒は得意ではなかったが飲まずにはいられなかった。二杯目をおかわりして、それも一気に飲んだ。
「もう一杯」
「大丈夫? 顔が真っ赤よ」
「大丈夫、大丈夫」
小夜子は三杯目のビールを注いだ。
愉快な気分だ。体が熱くてフワフワする。小夜子が美人に見える。わけもなく愉快だ。僕はカウンターに頬をつける。大理石が冷たくて気持ち良い。耳元で天使が囁いている。いや小夜子の声だ。小夜子が僕の薄くなった頭頂部を優しく撫でる。同じ薄毛だから気にならない。身も心もほぐされていく。今まで味わった事がない感覚だ。酒がこんなにも気持ち良くさせてくれるなんて……。20歳にして酒の味を覚えた。
僕はその日から店に通うようになった。
【第7話】再会
夜の帳の中を桐島はバカみたいに自転車をとばしていた。僕はまるで恋人みたいに自転車の後ろで桐島の背中にしがみついていた。
夜風が吹き抜けていく。
夜空には真珠色の星たちが輝いていた。
まだ少年だった頃、眠る街の中をこうして自転車に二人乗りして走った事を思い出した。尾崎豊の歌じゃないけど盗んだバイクではなく盗んだ自転車で。夜空に輝く星を見つめながら明るい未来を思い描いていた。どんな夢も叶うと信じて疑わなかった。
「照男は大きくなったらこの病院を継ぐのよ」
と母から呪文の様に言われて育った僕は、何の疑いもなく三代続く片岡医院を継ぐものだと思っていたが、中学生になると将来はモデルになりたい、と、思う様になった。切っ掛けは単純だった。死ぬほど女の子にモテたし、親は別として周囲から「背が高いしイケメンだから医者よりモデルなれば」と言われ、原宿でスカウトもされた。一番の決め手は、僕とすれ違いざまに女の子が何人振り向くかとう賭けをして、自分の予想以上に女の子が振り向いた事だった。
「薄毛……」
僕は夜風になびく桐島の乏しい髪を見ながら呟いた。
どんなに顔が良くても、背が高くても、センスがよくても、女の子にモテても、薄毛が全てをぶち壊してしまった。頭頂部のわずか直径7センチがモデルになる夢を奪ったのだった。
「なぁ何処に行くんだ。こんな時間に開いている店なんてないだろう?」
僕は自転車を漕ぐ桐島の背中に言った。
「夜中の2時から開く店があるんだ。もう少しで着くよ」
桐島が言った。
僕の家から自転車で20分は走っただろうか。自転車は東急池上線T駅近くの商店街を抜けて、大人3人が並んで通れる程の路地に入った。アーチ型の看板に『飲んだくれ横丁』と書いてあった。そこは飲み屋が軒を並べ、路上で男が酔いつぶれ、倒れたゴミ箱からゴミが散乱し、饐えた臭いが漂っていた。
「ここだよ」
蔦の絡まる小さな店の前で桐島が自転車を止めた。
「看板ないけど店なのか?」
「隠れ家的な店なんだ。常連しか来ないよ」
桐島は重厚な木の扉を開けた。
ドアベルが鳴って店内に入るとジャズと酒と煙草のにおいが出迎えてくれた。薄暗く縦に長い店内には、カウンター席とテーブルが4つ、コンクリートが剥き出しの壁にはダリの絵が飾られていた。テーブル席は全てうまっていて、カウンター席だけ空いていた。カウンターに女の人が一人立っていて桐島を見るなり笑顔で「いらっしゃいまし」と言った。桐島がこの店の常連客だということがわかった。
「今日は珍しい客を連れてきたよ」
桐島が言った。
「まぁ本当だ」
女が言った。
僕と桐島はカウンターに座った。
カウンターの灯りの下で女は僕をジッと見つめていた。女の肩まである髪は毛先にゆるくパーマがかけられ、長い睫毛は明らかにつけ睫毛で巧みに描いたアイラインが目を大きく見せていた。真っ赤な唇は天ぷらを食ったみたいにテカテカしていて、一生懸命メークしました、と、いう顔をしていた。
「とりあえずビールでいいか?」
桐島が言った。
「ああっビールで」
「かしこまり。私、小夜子、宜しくね」
小夜子はそう言って僕の顔をまじまじと見た。僕はさっきから彼女にジッと見られ不愉快だった。
「あれ、ママは?」
桐島が言った。小夜子はビールを注ぎながら
「ママ、痔の手術で入院したの。私、一人で店まわしているから大変よ。もうやってられない」
と言った。
「痔かぁ、手術痛いらしいな。よし大学、夏休みに入ったから、たまに手伝いに来るよ」
「助かる。でも当然よね。昔、あんたのパシリしていたんだから」
「パシリ?」
僕が言った。
「ねぇわからない?」
小夜子は僕を見つめた。
「俺だよ、俺」
「……」
「もう、やってられねぇ」
小夜子はそう言って自分の髪を鷲掴みにして上に持ち上げた。なんと地毛だと思っていた髪はカツラだった。しかも桐島に負けず劣らず額がM字にどんどん薄くなっていく、M字型の薄毛だった。
「えっ金子?」
僕は思わず手に持っていたグラスを落としそうになった。
「早く気づけよ。もう、やってられねぇ」
赤いワンピースを着た小夜子は、まぎれもなく高校の同級生、金子だった。
【第6話】告白
「まだ起きていると思って……」
桐島は素足にジャージ姿で部屋に入って来た。
「何だよ。突然、しかもこんな時間に」
「いや午後の講義受けないで帰ったからさ、薄毛を苦にくたばっちまったかと思って」
桐島がソファーに座った。
「バーカ。そう簡単に死んでたまるか」
僕はそう言いながらも嬉しかった。
「夜中におまえの家来るの久しぶりだな」
桐島はポケットから煙草を取り出した。
「何年ぶりだろう……」
僕が言った。
高校の頃、今から行くよ、と、メールか電話をよこせばいいものの桐島は突然、家にやって来て窓に小石を投げた。昭和の高校生じゃあるまいし、あまりに古典的でバカバカしいと思いつつ僕は何故かワクワクした。静まり返った部屋、台所から聞こえる冷蔵庫のブーンという音、近所の発情した猫の鳴き声、僕と桐島はインスタントの焼きそばにアホほどマヨネーズをぶっかけて、口のまわりをマヨネーズだらけにしながら焼きそばを食らい、声を殺して笑った。時々笑い過ぎて焼きそばを口と鼻からブッぱなした。悩みらしい悩みなんて一つもなかった。無敵だった。僕と桐島は純粋に仲が良かった。
いつからだろう。桐島が家に来なくなったのは……。大学生になった桐島が薄毛になったという理由だけで、僕が敬遠する様になってからだと思う。
「知っていたよ……。俺が薄毛になって、お前が敬遠するようになったの。最初はムカついたけど、まぁこんなんじゃあ仕方ないかなって」
桐島は笑いながら薄くなった頭を軽く叩いた。
「桐島……」
「磯部と中島なんて、露骨に俺をバカにしやがったから一発ぶん殴ってやったんだ。俺は昔から力でねじ伏せるタイプだから。奴等はそれから何も言わなくなった。お前は俺をからかわなったけど、腹の中で俺を蔑んでいた。ある意味、磯部や中島よりひでぇ奴だよな」
胸にナイフを突き刺された様だった。
僕は昔と変わらない態度で桐島に接していたつもりだった。胸の内を桐島に悟られまいとしていたのに全てお見通しだったとは……。
桐島がセブンスターに火を点けた。
枯草の様なにおいが立ち込める。桐島は深くゆっくり煙草吸って大きく煙を吐いた。紫煙がユラユラと部屋に漂い、桐島はその煙の行方を遠い目をして見つめていた。
「雪乃来たのか?」
桐島は煙草の灰を灰皿に落としながら言った。
「えっ、なんで知ってんの?」
「マルボロのメンソール、雪乃の吸い殻たろう」
灰皿には赤い口紅が付いた、きっちり同じ長さのマルボロの吸殻が3本あった。
「雪乃が煙草を吸うの知ってたんだ?」
「ああっ。雪乃は中学の頃から吸っていた」
「マジで?」
雪乃が中学生の頃から煙草を吸っていたなんて僕は知らなった。彼氏である僕が知らない事をなぜ桐島が知っているのか。嫉妬とも怒りともいえる感情が湧き上がってきた。
「俺、いつも体育館の裏で煙草を吸っていただろう。そこへ雪乃がやって来て煙草を吸いだしたんだ。中学三年の時、雪虫が飛ぶ寒い日だった。あいつ無表情で煙草を吸っていたんだけど、突然泣き出して私の体は汚れている。照男とやったけど取り消しなんてできなかった。よけいみじめになったって言ってた。雪乃、母親の彼氏にレイプされたんだ」
僕は耳を疑った。
「母親の店の客」
そんな……。僕はあの夜に思いを馳せた。
「ごめん。俺、中学の時、雪乃が好きだったから雪乃に目の前で泣かれて、ついキスしてしまったんだ。お前と付き合ってんの知ってて……」
過去の出来事なのに耳がカッと熱くなった。
「その男、合鍵を持っていたみたいで寝ているところを襲われたって。女の心理は分らないけど、好きなお前とやる事で自分の体と忌まわしい過去を清めたいと思ったのかなぁ。この事は墓場まで持って行くつもりだった。夜のせいかな、こんな話してしまったの……」
夜のせい?僕と雪乃が終わりに近づいているからだろう。そう、きっと雪乃から別れを告げられる。原因が薄毛だなんて笑ってしまう。もっと笑えるのは桐島と雪乃が秘密を共有し、雪乃にそんな忌まわしい出来事があったのを僕がずっと知らなかった事だ。
僕はソファーから立ち上がって窓を開け夜
空を見上げた。
黒い雲が月を覆い隠した。
どこからか風鈴の音が聞こえてきた。
「ちょっと付き合えよ。いい店あるんだ」
桐島が言った。
「こんな時間に?」
「いいから。ついて来いよ」
桐島が唇に笑みを浮かべた。
(つづく・・・)
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【第5話】追憶
こんなに泣いたのは小学生以来だった。あれは小学六年の時、近所の公園に猫が捨てられていて、僕はその子猫を家に連れて帰った。
「ダメよ、お父さん猫アレルギーなんだから。元の場所に戻してらっしゃい」
母は全く取り合ってくれなかった。母に子猫を飼うのを反対された僕は暫くの間、部屋でこっそり飼っていた。でも、ある日学校から帰ったら子猫の姿がなかった。
「猫、お母さんの知り合いにあげたから」
と母は言ったが、子猫が保健所に連れて行かれた事を悟った。僕は部屋に閉じこもり、毎日泣いてばかりいた。あの時は体中の水分がなくなってしまうのではないか、と、思うほど泣いたが、薄毛で流した悔し涙の比ではでない。そもそも屈辱を受けた記憶がないのだ。ましてや頭に煙草の灰を落とされるなんて……。雪乃があんな酷い事をするなんて信じられない。確かに彼女はクールだ。と、いうより磯部の言う通りドSかもしれない。磯部や中島が雪乃のギャップに驚いていたが、僕も最初はかなり驚いた。
「学級委員長さん、よろしくね」
雪乃の桜色の唇から真珠のような白い歯がこぼれた。僕は年頃の少年にありがちな態度で、「ああっ」とだけを返事した。
それが雪乃と僕の初めての会話だった。
中学一年の時、僕は学級委員長に選ばれ、雪乃が副委員長に選ばれた。雪乃の艶やかな黒髪からフワッと石鹸の香りがして、名前のとおり雪の様に肌が白かった。ベタな言い方だが地上に舞い降りた天使に見えた。でも僕は一目惚れするタイプではなかったし、お隣に住む美咲に好意を寄せていたから最初、雪乃の事は可愛いクラスメートにしか思っていなかった。
ところが雪乃に体育館の裏に呼ばれ、告白された上に唇を奪われた僕は、まるで木の葉が風でひっくり返るみたいに、美咲から雪乃に心変わりしてしまったのだ。清楚で優等生の雪乃が小悪魔に見えた。僕はそのギャップにやられた。
いとも簡単に恋に落ちてしまったのだった。
好きになるのに時間も理屈もない、と、その時心の底から思った。
それから僕と雪乃の付き合いが始まり、雪乃が猫好きだと知って、あの公園に捨てられていた猫の一件を話した。すると雪乃は、
「あのね、私のママ銀座で働いているんだ。しかもナンバーワンなの。パパはいない。顔も知らない。ママ、夜いつもいないでしょう。だから夜は一人ぼっち。それで寂しいってママに言ったら、猫でも犬でも飼えばいいじゃないだって。ウケるよね。ねぇ保健所から子猫貰ってきて、その保健所に連れて行かれた猫のぶんまで可愛がってあげようよ。二人で育てよう」
と言った。中学生だった僕は銀座やナンバーワンの意味がわからなったし、また雪乃が突拍子もない事を言い出した、と、戸惑った。その戸惑いは保健所から猫を連れて来て育てる、という事は勿論だが、「パパはいない。顔も知らない」と、まるで日常会話みたいにフツーに話す雪乃に、より戸惑いを覚えた。
僕は悲しい気持ちになった。
どうしてパパがいないの?なんて、とても聞けなかった。
数日後、僕と雪乃は保健所から殺処分寸前の三毛猫の子猫を貰ってきた。子猫に三毛猫の三毛と僕の名前の照男から男をとって三毛男と命名した。それからというもの僕は部活の帰りに雪乃の家に寄るのが日課となった。
中学生三年の冬の日、両親が結婚記念の旅行に行った。受験生の僕は一人留守番する事になった。すると雪乃から、
「家に泊まり来て」
と誘われた。僕は三毛男と遊べるし、雪乃と一緒に受験勉強をするのも悪くない、と、思って雪乃の家に泊まりに行った。
ところが……。
その夜、僕は男になった。
雪乃から誘ってきた。彼女は何かにとり憑かれたみたいに僕を求めてきた。きしむベッドの上、欲望とモラルの狭間で揺れ動きながら無我夢中で僕も雪乃を求めた。恍惚と罪悪感が交互に細波みたいに寄せては返した。
全てが終わった。
ベッドに横たわって僕を見つめる彼女の瞳は、この世の全ての悲しみを湛えていた。あんなに淋しい目を見たのは初めてだった。
「高校は別々になっちゃうけど、他の女の子好きになったら許さないから」
雪乃はそう言っていたが、彼女に好きな男ができて僕達は別れた。ところが大学で雪乃と再会して三毛男がまだ生きている事を聞き、三毛男に会いに彼女の家に行ったのが切っ掛けで付き合う事になった。でも大学の構内で雪乃を見かけた時点で彼女を好きになっていたんだと思う。熟成したワインのように、芳醇な大人の女になった雪乃に僕は二度目の恋をした。
「ああっ泣いたら喉が渇いた」
僕はベッドから起き上がった。
「何?」
窓に何かが投げつけられた音がした。
「まさか雪乃……」
僕は慌てて窓を開けた。
「はぁ?」
窓を開けるとジャージ姿の桐島が庭から手を振っていた。
「おい、玄関のカギ開けろよ」
このシチュエーションは久しぶりだった。真夜中に突然、桐島が訪ねてくるのは高校以来だった。
(つづく・・・)
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【第4話】慟哭
「なぁ見せろよ」
磯部が僕を羽交い絞めにして中島が僕の頭を押さえつけようとした。
「お前らふざけんなよ」
僕は中島の向こう脛を思いっきり蹴とばした。
「いてぇ何すんだ。このハゲ」
中島のボディブローが横っ腹にズシリと飛んできた。
「あんた達、何してんの?」
雪乃が部屋に入って来た。
「中学生の喧嘩じゃあるまいし」
雪乃は僕達の足に蹴りを入れると、長い黒髪をかき上げながらソファーの真ん中に座った。
「雪乃ちゃんのジュース持って行って」
1階から母が叫んでいた。
「甘ったるいジュース嫌いだから」
雪乃は僕に目で合図した。
僕はドアを開けて、
「雪乃、何もいらないって」と叫んだ。
磯部はベッドの上にあぐらをかき、中島と僕は雪乃を真ん中にしてソファーに座った。雪乃は黒のミニスカートから、すらりと伸びた足を緩く組んで、クロエのバッグからマルボロのメンソールを取り出した。
中島と磯部が目を丸くしていた。無理もない。英文科の雪乃は大学ではマドンナ的存在で、去年も今年も我が大学のミスに選ばれ清楚なお嬢様でとおっていたから。でも僕の前では素顔を見せていた。中島と磯部にも素顔を見せるなんて何を企んでいるのか……。
僕は一抹の不安を覚えた。
「灰皿」
雪乃が煙草に火を点ける。
僕は慌てて部屋に置いてある雪乃専用の灰皿を机の引き出しから取り出してテーブルの上に置いた。煙草嫌いの母に、僕は煙草を吸っていると思われたくなかったので、灰皿を机に隠していた。雪乃は僕の母に煙草を吸っているのを知られたくないらしく、彼女は母の前でも育ちの良いお嬢様を演じていた。
「雪乃ちゃん、煙草吸うんだ……」
磯部がベッドの上で無駄に弾みながら言った。
「いやぁー意外だな、雪乃ちゃんそんなキャラだった?」
中島も動揺を隠し切れない様だ。雪乃は鼻で笑って中島の顔に煙を吹き掛けた。
「俺、煙草の煙が苦手……」
中島が咳き込む。雪乃は灰皿の上に煙草を置いてケラケラと笑い出した。僕は灰皿の上の赤い口紅が付いた煙草を見つめながら、胃がキュッとなった。雪乃が中島をからかっている。中島もイケメンには違いなかったが、僕より断然格下だ。そんな中島に僕は初めて嫉妬した。
「ちょっと見せて」
雪乃は素早く僕の頭を腕で抱え込んだ。
「やめろよ」
僕は頭を激しく振った。ああっ雪乃に見られてしまった。全身の毛という毛が逆立っていく。心臓の鼓動が激しくなっていった。
雪乃は深く煙草を吸って、煙を宙に細く長く吐き出すと、僕の薄くなった頭頂部に煙草の灰を落とした。
その場が一瞬、静まり返った。
「ごめん、灰皿かと思った」
爪が手のひらに食い込んで、血が出るほど両手を握り絞めた。僕の体は小刻みに震えていた。言葉すら出てこなかった。
「雪乃ちゃん、もしかしてドS?」
磯部が珍しく場の空気を和ませようとしているのが分かった。すると中島が薄笑いを浮かべながら言った。
「だよね。照男の頭、見ようによっては、カッパの皿に見えるし、灰皿にも見えるもんなぁ。ああっ、歴史の教科書によく出てくる、ほらフランシスコ……」
「ザビエル!」
磯部と雪乃が声を揃えて言った。
笑い声が部屋中に広がる。
僕は唇を噛み締めた。こんな屈辱を今まで味わった事がない。こいつらを殺したい。僕は本気で思った。
「ねぇ、これからカラオケに行かない?」
雪乃が言った。
「いいねぇ」
磯部が言った。
「行く、行く」
中島もご機嫌だ。磯部も中島も雪乃に気があった。
「僕は遠慮するよ」
「照男は誘ってないから。っていうか来ないで」
「何で?」
「だって一緒に居るの恥ずかしいもん」
雪乃が言った。
「……」
三人は僕をおいてカラオケに行った。
一人、部屋に残された僕は何もする気になれなかった。ベッドに横になったまま只天井を見つめていた。
放心状態だった。
雪乃の「だって一緒に居るの恥ずかしいもん」という言葉が頭の中をリピートしていた。
因果応報。
口に出して言わないまでも薄毛になった桐島に抱いていた僕の感情が、そのまま自分に跳ね返ってきた、と、思った。
僕は布団の中で泣いた。
(つづく・・・)
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【第3話】屈辱
「照男、帰っていたのか……」
父の裕造が洗面所に入って来た。僕は咄嗟に手鏡を後ろに隠した。
父の頭髪をマジマジと見る。
「なんだ? 髪に何かついているか?」
「いや、別に」
僕は慌てて視線を逸らす。やっぱり薄毛でもないしハゲてもいない。50歳の父の髪は白髪こそ多いがフサフサしていた。僕はまだ20歳だというのに……。益々絶望的な気持ちなった。
「そろそろ夏休みか?」
父が言った。大学生になって父との会話がめっきり減ったので、父は息子と久しぶりに会話ができて嬉しそうだったが、病院を継ぐ話に発展すると面倒なので、僕は「明日から」と言って、そそくさと洗面所を出ようとした時、玄関から母の声が聞こえた。やばい、帰って来た。早く手鏡をドレッサーに戻さないと……。
「照男、中島君と磯部君よ。買い物の帰りに道でばったり会っちゃって」
「なんで中島と磯部が突然、家に来るんだよ」
僕は誰に言うでもなく言った。
「頭、ハゲたんだって?」
磯部が言った。磯部は勝手に僕のベッドに横になっていた。
「正しくは薄毛でーす。お前の写真、拡散されているらしいぞ」
中島がソファーに横になってスマホを見ながら言った。
「写真?」
僕は部屋に入ると、母が用意してくれたスナック菓子とジュースをテーブルの上に置いた。
「貸せ」
中島からスマホを取り上げた。
スマホを見た僕は言葉を失った。
SNSに僕の頭頂部の写真がアップされていたのだ。しかも、ショック!大学1のイケメンが薄毛だなんて!憧れの先輩だったのにマジでショック!と、コメントが書かれていた。
これは明らかに僕が学食で箸を落とした時に撮られた写真だ。ものの数秒でよくもまぁ撮影したもんだ。あの時、僕のそばに居た女の子達の誰かが撮影したのだ、と、ピンときた。
まったく恐ろしい世の中だ。
「写真撮った子、俺と同じサークル。どうやらお前のファンだったらしい。密かにお前の追っかけやっていて、写真も撮っていたみたいだな」
中島が言った。
「目立たない奴が薄毛になろうが、ハゲになろうが話題にならないけど、お前みたいな超イケメンが薄毛になっちゃうと大騒ぎになるんですねぇ」
磯部のふざけた口調に僕はイラッとした。
「おい、ベッドから下りろよ!」
磯部はゆっくり起き上がってあぐらをかいて言った。
「なにイラついてんだ? 俺達、心配して来てやってんじゃん」
「どうだか」
お前らが心配する?笑わせるな。基本、人の事なんてどうでもいいくせに……。
二人とも僕と同じ医者の息子だった。
磯部は某巨大病院の外科部長の息子で抜群に頭が良い、中島は芸能人がお忍びで通う有名美容整形外科の一人息子だった。三代続く街医者の息子と違って、二人とも金持ちのボンボンだ。
そんな彼等と僕は同じ大学の医学部で高校も同じ、高校三年の時はクラスも一緒、そこに桐島が加わって僕達はいつもつるんでいた。クラスはカースト制度そのもので、桐島が頂点に君臨し僕や磯部、中島がその下に居た。僕達のグループにはもう一人、猿にそっくりの金子が居て、よく桐島や磯部、中島にイジられていた。僕はそれをただ笑って見ていた。金子は僕達のパシリで、いつも売店にパンを買いに走らされていた。
「もう、やってられねぇ」が金子の口癖だった。
僕は桐島には一目置いていたが、他の奴らは表面上の付き合いで、どこか馴染めなかった。それでも彼等とつるんでいたのは、同じグループに居る事で、何かと恩恵を受けていたし、カースト制度の上の階級、つまりこのグループに身を置く事で、安心感と優越感を得ていたのだった。
「オレンジジュースかよ。おばさん、俺達まだ高校生だと思ってんじゃねぇ? ビール飲みてぇ。照男、ビール持って来い」
中島がソファから起き上がった。
「お前、まだ19だろうが」
僕は中島の隣に座った。
「来月、ボク大人の仲間入りをします。君達と同じハタチでーす」
「アホか」磯部が言った。
「なぁハゲ見せろよ」
中島が僕の頭頂部を覗き込もうとした。
僕は慌てて立ち上がった。
「ボクチンにも見せてください」
磯部がおどけた口調で言って、ベッドから飛び降りた。
なんて下劣な奴等だ。
人の不幸を完全に面白がっている。
「いいじゃん。見せろよ」
中島が言った。
「なぁ彼女、知ってんの? お前の薄毛」
磯部が言った。その言葉に僕の体が凍りつく。雪乃が僕の薄毛を知ったら、どんな態度をとるだろう……。
「照男、雪乃ちゃんが来たわよ」
一階から母が叫んでいた。
「おお噂をすれば何とやら」
磯部がニヤリと笑った。
(つづく・・・)
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