【第2話】真実
「マジだって」
桐島はポケットから手鏡を取り出して、僕に渡した。
手鏡は手の平より少しだけ大きめで、鏡の表面には薄く白い指紋が、いくつも付着していた。桐島が日に何度も手鏡を覗いては、薄くなっていく己の髪の毛に、溜息をつく姿が目に浮かんできた。
指紋の数は彼の苦悩の数に思えた。
もし僕の薄毛が真実ならば、もはや他人事ではない。
僕は急いで学食を出た。
「マジか……」
手鏡を頭上にかざし、正面の鏡に反射させて頭頂部を見た。
信じられなかった。
頭頂部が丸く薄くなっていた。なぜ薄毛になったのか……。全く原因が分からない。遺伝ではないのは確かだ。父も祖父も全部が白髪だけどハゲてはいない。僕は鏡を見ながら、薄毛の進み具合を確認する。
「何度見ても同じだよ」
いつの間にトイレに入って来たのか、振り返ると、桐島が唇に笑みを浮かべながら立っていた。お前も薄毛の仲間入りだ、と、言わんばかりに。
僕の耳がカッと熱くなった。
「まさに照男だな」
「はぁ?」
「そのうちハゲるぞ。そしたらピカピカ照男じゃねぇ? まさに名前の通りじゃん」
僕は手鏡を桐島に全力で投げつけた。鏡は桐島の顔ギリギリを通過し、壁にぶつかり粉々に割れた。その破片の一つが飛んで僕の頬が切れた。怒りのあまり痛みさえ感じない。桐島が冗談で言ったのはわかる。でも冗談ではすまされない。奴を殺したい、と、心底思った。
「ごめん。言い過ぎた」
桐島がくぐもった声で言った。
照男という名前は、人の役に立ち世の中を明るく照らす男になって欲しい、と、両親が願いを込めて付けた名前だ。ハゲになって照らして欲しい、なんて願いを込めて付けた名前なんかじゃない。
僕は桐島を睨みつけた。
「お互い強く生きていこうぜ」
桐島が僕の肩を叩いた。
はぁ?同類って事?これでお前も薄毛の仲間入りだから共に強く生きていこうってか?冗談じゃない。
僕は桐島の手を振り払った。
「一緒にすんじゃねぇ」
「一緒じゃん」
桐島の目は、同情にも憐みにも喜びにもとれた。
午後の講義なんか受ける気にもなれなかった。僕は講義をサボって街を彷徨歩いていた。
いつもの街が違って見えた。
街が色褪せている。行き交う人々も大なり小なり悩みがあるに違いない。でも、この世で一番不幸なのは僕だ。
すれ違う女の子達が僕を笑っている気がした。彼女達は身長180cmの僕より背が低いから、僕が前屈みにならない限り、頭頂部の薄毛には気がつかないだろう。でも彼女達に薄毛を笑わられている気がした。
今まで気にも留めなかった看板が、やたら目につく。薄毛、増毛、育毛、ウイッグ……。心模様が変わると目に映る風景までも変わった。
世界が一変したのだった。
何処をどう歩いたのか覚えていないが僕は家の玄関の前に立っていた。見上げると漆黒の空に細い三日月が浮かんでいた。玄関の灯に無数の虫が集まっていた。ジッとり汗をかいた体に、生暖かく湿度の高い夜風は不快極まりなかった。
玄関の前でボッと立っていると、母の美佐恵が突然、玄関から出て来た。
「びっくりした。どうしたの……」
「いや、別に」
「ちょっとワサビきらしたから、買ってくるね。今夜はあなたの好きなお刺身よ」
「晩飯いいや。友達と食べてきたから」
「そう。それにしても顔色悪いんじゃない?」
「そうかな……」
「どこか具合でも悪いの? それとも何かあった?」
「うるさい」
僕は声を荒げ急いで家の中に入った。
家に帰って真っ先にする事は、子供の頃から手洗い、うがいだったが、僕は母のドレッサーから手鏡を取り出し洗面所に向かった。手鏡を頭上にかざして、洗面所の鏡に反射させ頭頂部を見てみた。
「やっぱり薄くなっている……」
この日から薄毛を確認する事が僕の日課となった。
(つづく)
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